京都上桂をベースとする共同体

2010/06/19

桂にはツチノコがいるみたい。




梅雨入り。
雨の降る日が増え、湿度も高い。
パラソル近くの桂川が増水していた。

先日、宮下公園に関するトークの時に、「公共の場」ということが話題になったけれども、そのときに河川敷は自然発生的な公共空間ではないかという意見がでていた。
確かに河川敷は、公園のように公的に整備されていなくても、遊び場になっていたり、畑になっていたり、橋桁の下に人が住むこともあったりして公共空間といえなくもないだろう。
桂川もそういった用途で多くの市民に利用されている。

その桂川を通りがかったところ、川辺の小屋(誰かが建てた休憩所のようなもの)が、このところの雨による増水で浸水し、まるで水に浮かんでいるかのような宙吊り状態になっていた。
(写真は若干減水後。雨上がり直後はほんとに川面に浮いてるみたいだった。)

人が構築したものは自然の力によって簡単に意味を失ってしまう。


パラソルに戻ってイラクの地図を見てみると、そこには地形に沿った曲線の国境線と、条約で定められた直線の国境線とが存在する。
イラン・イラク間は川を国境としていたために、川が氾濫し流れを変えてしまうことが、争いを引き起こしてきたという。

一方で川は物資の流通手段となり、水が農作物を育み、人間が文明を築き上げることに役立ってきた。(そう、イラクはシュメール文明の発祥の地です。シュメール文明、メソポタミア文明、チグリス・ユーフテラス川、アラビアンナイト、、、)


地形や気候を無視し、その土地に暮らさず、机上で土地を区切ることは無意味だろう。
しかし、地形による曲線の境界は、いつまでも同じ形ではいられない。
地殻変動や気候などの自然現象に人間はふりまわされなければならないのだろうか?
(そもそも、土地を人間が所有できるものと考えること自体おかしいとは思うけれど)


どういった存在の方法がヒトや動物や植物にとって自然なんだろうか。
(「共生」「共存」って、簡単には言うけれど…)

押さえ込みもせず、取り込まれもせず。


さて、イマジンイラク写真展、いよいよ明日が最終日です。
どうぞお立ち寄りください。



↑この看板も桂川河川敷にて発見。

(記:中島)

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